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(ここまで書いておいて今更いやそれウリムーとガラポニすぎねえ?と気付きましたが、見なかったことにします)
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幼少期メモ(AI生成)
朝は、空腹で目が覚めることから始まる。腹が鳴る前に目を開けられた日は、まだましなほうだった。瓦礫を組み合わせただけの簡素な住処の天井は、夜露を含んで黒ずんでいる。ゼルクは身を起こすと、隣で丸くなって眠るヴァルドの背を足先で軽く小突いた。「起きろ」とは言わない。声を出せば、余計な者まで起こしてしまうからだ。ヴァルドは低く唸り、すぐに起き上がる。目つきは鋭いが、まだ少年の輪郭を残している。
朝の路地は冷たい。湿った土と錆の匂いが混じり、遠くで機械の駆動音が唸っている。中央区画の排水が流れ込む細い溝の脇を、二人は無言で歩く。今日の目当ては市場の裏だ。早朝なら、売れ残りや落とされた品がある。ゼルクは目がいい。箱の隙間、布の影、積み荷の下。小さな違和感を見逃さない。ヴァルドは体を張る。追い払われる役目も、重たいものを抱える役目も、自分だと心得ている。
市場の喧騒が高まる前、二人は木箱の陰に身を滑り込ませた。傷んだ果実が一つ、転がっている。ゼルクが素早く拾い、衣の内側に押し込む。別の箱からは乾いたパンの欠片が見えた。手を伸ばした瞬間、怒声が飛ぶ。店主が棒を振り上げる。ヴァルドは反射的に前に出た。棒は肩をかすめ、鈍い音を立てる。それでも彼は歯を食いしばり、ゼルクに視線を送る。合図はそれで十分だった。ゼルクは反対側へと駆け、店主の視線を引きはがす。追う足音が遠ざかった隙に、ヴァルドは反転して路地へ消えた。二人はいつもの廃屋の裏で落ち合う。息を整え、成果を広げる。果実は半分に割り、パンはさらに小さく裂く。どちらが多いかで揉めることはない。腹の減り具合で、自然と手が止まる。
食べ終えた後、ヴァルドは肩を回した。棒が当たった場所が赤くなっている。ゼルクは無言で近づき、汚れた布を水で湿らせて当てた。「痛いか」と問えば、負けを認めるようで言わない。ヴァルドは鼻で笑う。「平気だ」と短く答える。嘘だと分かっているが、追及はしない。痛みは、この街の挨拶のようなものだ。
昼前には、別の連中が縄張りを主張してくる。年上の少年たちだ。金の匂いがする仕事は、いつも取り合いになる。廃材の山から銅線を抜き取る単純な作業でも、換金すれば食事になる。ゼルクは素早く指を動かし、ヴァルドは背後に立つ。挑発の言葉が飛び、石が一つ転がる。次の瞬間、押し合いになる。拳は軽く、足払いは鋭い。大人の喧嘩ほどの凶悪さはないが、容赦もない。やがて相手は舌打ちして去る。勝ったわけではない。ただ、今日は奪われなかったというだけだ。
午後、二人は高架の下に腰を下ろす。影は涼しく、上を走る輸送列車の振動が足元に伝わる。ゼルクは銅線を指先で弄びながら、遠くの空を見た。煙に曇っていても、青はある。ヴァルドは仰向けになり、腕を枕にする。「いつか、あっちに行く」と、唐突に言う。中央区画の方角だ。高い塔が並び、灯りが消えない場所。ゼルクは目を細める。「行ってどうする」と問えば、ヴァルドはしばし考え、「でかい飯を食う」と答えた。笑うしかない夢だが、笑わなかった。夢を嘲る余裕はない。夢は、飢えをやり過ごすための道具でもある。
夕刻、風が冷たくなると、二人は水を汲みに行く。壊れた給水塔の根元に、細い流れがある。順番を巡って小競り合いが起きるが、今日は大事にならない。空が茜に染まり、影が長く伸びる。ゼルクは水面に映る自分の顔を見た。まだ何者でもない顔。ヴァルドは隣で手を洗い、濁った水を払い落とす。大きくなる途中の手だ。力はあるが、まだ届かないものの方が多い。
夜、廃屋に戻ると、風が隙間から入り込む。二人は背中合わせに座り、互いの体温で寒さを凌ぐ。遠くで歓声が上がる。裏闘技場の音だ。金持ちの笑い声が風に乗って届く。ヴァルドは耳を澄まし、唇を噛む。ゼルクは目を閉じる。あの輪の中に入れば、今日よりは食えるかもしれない。だが同時に、戻れなくなる気配もある。まだ、その時ではない。そう直感している。
眠りに落ちる前、ゼルクは小さく言う。「明日も、取るぞ」。ヴァルドは「ああ」とだけ返す。約束というほど大げさではない。ただの確認だ。明日も生きる。その日の命を繋ぐ。それだけが、二人の計画だった。
夜更け、月が雲間から覗く。白い光が崩れた天井の隙間から差し込み、少年たちの横顔を淡く照らす。角も牙も、まだない。ただ、痩せた肩と擦り傷だらけの手がある。強さも奇跡も発現していない。だが、背を預ける温もりだけは確かだった。世界がどれほど冷たくとも、その小さな熱が消えない限り、二人は朝を迎えることができる。そう信じるしかない夜だった。
⸻
(BL感がより強いオマケのオマケの続き)
その日も月光道場は賑わっていた。王者がときおり顔を出して手本を見せるようになってから、子供たちの集中力は目に見えて上がっている。もっとも当人は「手伝いだ」と言い張っているが、広場の端に立つだけで空気が引き締まるのだから、影響は絶大だ。
その日の稽古は、王者が若者たちの組手の相手を軽く務めたあと、子供たちにも簡単な型を見せる流れになった。大きな体が無駄なく動き、踏み込みも引きも美しい。わざと力を抑えているのが分かるのに、それでも格の違いは隠せない。見ている子供たちの目が、きらきらと輝いている。
「すげえ……」
誰かが呟き、それが小さな波紋のように広がる。
ゼルクは腕を組み、少し離れた位置からそれを眺めていた。誇らしい、という感情を隠すつもりはないが、顔に出すのは癪だ。王者が最後に軽く手を上げて締めると、子供たちは一斉に駆け寄った。
「ヴァルド様、次いつ来るの!」
「先生より強いの!?」
無邪気な問いに、王者は困ったように笑う。
「先生のほうが厳しいぞ」
さらりと返すと、子供たちがどっと笑う。ゼルクは眉をひそめる。
「余計なこと言うな」
そのやり取りを見ていた一番年少の少女が、きょとんと首を傾げた。そして、あまりにも自然な調子で爆弾を投げた。
「ねえ、先生と王者って、結婚してるの?」
一瞬、丘の空気が止まった。
ゼルクの腕が、ぴたりと固まる。王者は目を瞬かせたまま動かない。周囲の子供たちは「えっ?」と顔を見合わせ、次の瞬間には興味津々の目を向けてくる。
「してるの?」
「先生は王者のお嫁さんなの?」
「どっちがお嫁さん?」
矢継ぎ早に飛ぶ質問。
「はあ!?」とゼルクが声を荒げる。「してねえ!」
だが否定の勢いが、かえって図星のように響いたらしい。子供たちは一斉ににやにやしはじめる。
「でもいっつも一緒じゃん」
「同じ家だよね?」
「王者、先生のことすごい見てるし」
ゼルクは言葉に詰まる。見ているのはお互い様だ、とは言えない。頬がじわりと熱くなるのを自覚し、ますます声が荒くなる。
「ち、違う! あれはだな、ただの――」
「ただの?」
無邪気な追撃。
横を見ると、王者が口元を押さえている。笑いを堪えているのが丸分かりだ。
「おまえ、否定しろ」
低く睨むと、王者はわざとらしく咳払いをした。
「そうだな……結婚はしていない」
妙に落ち着いた口調。子供たちが「ほら!」と騒ぐ。
だが続く一言が、さらに火に油を注いだ。
「だが、大事な相手だ」
一拍の沈黙。
そして、爆発。
「やっぱり!!」
「ほらほらー!」
「先生、顔赤い!」
ゼルクは完全に言葉を失った。否定したいのに、否定の仕方が分からない。大事だと断言されたことが、胸の奥を熱くするからだ。
「お、おまえな……!」
王者は涼しい顔で子供たちに向き直る。
「先生は強い。俺がいなくても立っていられる。だから、隣にいる」
その言い回しがあまりにも堂々としていて、子供たちは「かっこいいー!」と歓声を上げる。
ゼルクは思わず頭を抱えた。
「だからそういう言い方すんな!」
「事実だ」
「やめろ!」
少女がにこにこしながら言う。
「じゃあ、結婚したら教えてね!」
「しねえ!」
即答するが、声が裏返る。子供たちはそれを面白がり、しばらくからかい続けた。
ようやく解散し、丘が静かになるころ、ゼルクは深いため息をついた。
「……最悪だ」
隣では、王者がまだ肩を震わせている。
「随分楽しそうだったな」
「楽しいぞ」
「俺は楽しくねえ!」
睨みつけると、王者は少しだけ真面目な顔になった。
「嫌だったか」
その問いに、ゼルクは一瞬詰まる。嫌か、と聞かれれば、答えは単純ではない。からかわれるのは腹立たしい。だが、「大事な相手」と言われたときのあの熱は、否定できない。
「……ガキ相手に変なこと言うなってだけだ」
ぼそりと返すと、王者は小さく笑う。
「次はもっと上手く否定する」
「次もあんのかよ!」
夕暮れの丘に、二人の声が響く。欠けた月が、薄く空に浮かんでいる。
ゼルクはそっと横目で隣を見る。王者はもう“王者の顔”ではない。ただ穏やかな表情で、丘の向こうを眺めている。
結婚しているわけでもない。嫁でもない。だが、隣にいる。
それで十分だ、と言われた気がして、ゼルクはそっぽを向きながら小さく呟く。
「……次言ったら、本気で殴るからな」
その声は、思っているよりずっと柔らかかった。
⸻
夜は、思いのほか静かだった。
子供たちの爆弾発言から数日が経っても、ゼルクの胸の奥には妙な熱が残っている。丘の上ではいつも通り振る舞えたが、家に戻ると、どうにも落ち着かない。
食事を終え、火を落とす。窓の外には、細くなった月。部屋の中は、柔らかな灯りだけが揺れている。
ヴァルドは鎧を外し、簡素な衣に着替えていた。肩や腕の傷はまだ完全には塞がっていない。ゼルクは無言で布と薬草を持ってくる。
「座れ」
短く命じると、ヴァルドは素直に従った。
包帯をほどき、新しい布を巻く。指先が、肌に触れる。戦いで鍛えられた身体は温かく、確かな重みがある。再生に頼らない身体だからこそ、その体温はどこか生々しい。
「……痛むか」
「いや」
答えは簡潔だが、呼吸がわずかに深くなる。
巻き終えて手を離そうとした瞬間、逆に手首を掴まれた。
力は強くない。だが、逃がさないという意志はある。
ゼルクの心臓が、ひとつ大きく跳ねる。
「何だ」
「触れられるのは、嫌か」
低い声。
舞台の響きではない。丘の上の穏やかさとも違う、もっと近い距離の音。
ゼルクは視線を逸らす。月明かりが差し込み、床に淡い影を落とす。
嫌か、と問われて、即答できない。
触れられるたびに、胸の奥がじわりと熱を持つ。安心と、焦りと、どうしようもない期待が混じる。
「……ずるい」
ぽつりと零れた。
ヴァルドの指が、わずかに強くなる。
「何が」
「嫌って言えねえの分かってて聞くな」
正面から見れば、きっと顔は赤いだろう。だが視線は上げない。
ヴァルドはしばらく黙っていた。掴んでいた手首を、今度はゆっくりと引き寄せる。距離が縮まる。呼吸が触れ合うほど近い。
「言わなくていい」
静かな声。
「ただ、確かめたかった」
ゼルクの角が、ほんのりと光る。欠けた月の夜だというのに、淡く応える。
指先が、今度は頬に触れる。戦場で人を倒すための手が、驚くほど慎重に、輪郭をなぞる。
ゼルクは目を閉じた。
拒む理由はない。だが、受け入れるのは、いまだに怖い。守る側でいたい自分と、守られたいと願う自分が、胸の奥でせめぎ合う。
「……俺は、隣に立つんだぞ」
かすれた声。
「分かってる」
即答だった。
「だから、触れる」
その理屈は乱暴で、けれど真っ直ぐだ。
額が触れ合う。月明かりが、二人の影をひとつに重ねる。
ゼルクは小さく息を吐き、ようやく視線を上げた。
「次、同じ聞き方したら殴る」
「次は聞かない」
「それもずるい」
ヴァルドが笑う。その笑いは、群衆に向けるものではない。誰にも見せない、柔らかな温度。
触れた手は、強引に引き寄せるでもなく、ただそこにある。選べる距離を残したまま、離れない。
ゼルクはゆっくりと身体を預ける。ほんのわずかに。
それだけで、十分だった。
欠けた月の夜。
満ちきらない光の下で、二人の呼吸は静かに重なる。
言葉にしなくても、触れた体温が答えになる。
ずるい、と呟いた声は、もう震えていなかった。
⸻
その夜以来、ゼルクは自分の身体の扱いに少し困るようになった。
何が変わったわけでもない。朝は来るし、丘には風が吹き、子供たちは相変わらず騒がしい。ヴァルドも普段通りに道場へ顔を出し、必要以上に前へ出ることはせず、しかし立っているだけで空気を整えてしまう。
ただ――ゼルクのほうが、落ち着かない。
朝、井戸から水を汲み上げるとき、背後に気配を感じるだけで妙に肩に力が入る。振り向けば、ヴァルドが腕を組んで空を見ているだけだ。何もしていない。何もしていないのに、昨夜の低い声が、不意に脳裏に蘇る。
「触れられるのは、嫌か」
思い出した瞬間、桶を持つ手が滑った。
水が半分こぼれる。
「……何やってる」
背後から声が飛ぶ。
「うるせえ、滑っただけだ!」
必要以上に語気が強くなる。ヴァルドは怪訝な顔をするが、追及はしない。ただ黙って桶を持ち直すのを手伝う。その指先が、わずかに触れる。
それだけで、心臓が跳ねる。
自分の反応に腹が立つ。
道場ではさらにひどい。子供たちの前では平静を装っているが、ふと視界の端にヴァルドの姿が入ると、言葉を一拍置いてしまう。
「先生、いま噛んだ?」
「噛んでねえ!」
動揺を見抜かれている気がして、余計に苛立つ。
組手の見本を見せるときも、普段なら無意識に身体が動くのに、なぜか“見られている”ことを意識してしまう。踏み込みの角度、腕の振り、呼吸の整え方。完璧であろうとする自分がいる。
(何だよ、これ)
戦っていた頃の緊張とは違う。命のやり取りの張り詰めた感覚ではなく、もっと私的で、逃げ場のない意識。
昼過ぎ、稽古が終わると、ヴァルドが水を差し出してくる。
「今日は力が入りすぎてた」
図星だった。
「……別に」
「俺のせいか」
真顔で言われ、ゼルクは盛大にむせた。
「違う!」
子供たちがくすくす笑う。最悪だ。
ヴァルドはそれ以上追わない。ただ、いつもの穏やかな表情で隣に立つ。その距離が、以前より近く感じるのは、ゼルクの意識のせいだ。
夜になればなおさらだ。
同じ屋根の下、同じ部屋の空気。以前は気にもしなかった寝返りの音や衣擦れが、やけに鮮明に耳に届く。灯りを落としたあとも、気配がそこにある。
背を向けて横になるが、眠れない。
(気にするな)
そう言い聞かせても、あの夜の月明かりと、頬に触れた指先の感触が蘇る。
不意に、背後から声がする。
「起きてるな」
低い、落ち着いた声。
「……起きてねえ」
即答が速すぎる。
布越しに、わずかに距離が縮まる気配。触れてはいない。触れてはいないのに、体温が近い。
「今日は妙だった」
「おまえが言うな」
「何もしてない」
「それが悪い!」
沈黙のあと、喉の奥で小さな笑いがこぼれる。
ゼルクは枕に顔を押しつけた。
守るとか、隣に立つとか、そういう大きな言葉なら扱える。だが、こうして日常の隙間に入り込んでくる距離は、どう扱えばいいのか分からない。
「……明日から、もっと離れろ」
「嫌だ」
即答。
ゼルクは天井を睨む。
(ずるい)
またその言葉が浮かぶ。
だが同時に、離れたら落ち着くのかと自問して、答えが出ないことに気づく。きっと落ち着かない。むしろ余計に意識する。
結局、眠りに落ちる直前、ゼルクは小さく呟いた。
「……見るな」
「見てない」
「嘘つけ」
だがその声には、もう怒気はない。
慌ただしく、落ち着かず、妙に胸が熱い日々。それでも朝になれば、また並んで丘に立つ。
隣にいることを、いちいち意識してしまう自分に戸惑いながら。
そしてその戸惑いすら、どこか甘く感じてしまうことに、まだゼルクは気づかないふりをしていた。
⸻
夜は、ひどく静かだった。
昼間の稽古の疲れがまだ残っているはずなのに、ゼルクはなかなか眠れずにいた。ここ最近ずっとそうだ。隣にいる気配を、必要以上に意識してしまう。呼吸の間隔、寝返りの音、布が擦れる微かな気配。すべてが近い。
背を向けて目を閉じていても、分かる。ヴァルドも起きている。
沈黙が、やわらかく張りつめる。
「……ゼルク」
低い声が、暗闇に溶ける。
返事をするか迷い、ほんの一拍遅れて「何だ」と応じる。声が少しだけ掠れているのを、自分で自覚している。
しばらく言葉は続かない。ただ、距離がわずかに縮まる。触れてはいない。だが、体温が近づく。
「このままじゃ、誤魔化せない気がする」
静かな告白のようだった。
何を、と聞かなくても分かる。ここ数日のぎこちなさ。触れれば止まらなくなりそうな予感。それでも、どちらも決定的な一歩を踏み出さなかった理由。
ゼルクは、ゆっくりと身体を向けた。
暗がりの中で、目が合う。月明かりが薄く差し込み、互いの輪郭を淡く縁取る。
「……怖いか」
ヴァルドの問いは、あまりに真っ直ぐだ。
ゼルクは少しだけ笑った。強がりではない、困ったような笑み。
「怖くねえって言ったら、嘘になる」
戦うことは怖くなかった。傷つくことも、倒れることも。だが、失うことは怖い。守りたいと認めた相手を、近くに置くことは、想像以上に重い。
ヴァルドは手を伸ばす。その動きは慎重で、以前のように問いかけるような触れ方ではない。ただ、指先が頬に触れる前で止まる。
「嫌なら、止める」
選択を残す声。
ゼルクはその手を見つめ、それから自分から距離を詰めた。頬が掌に触れる。
「……また聞くのか」
かすれた声。
「聞かない」
「ずるい」
小さく笑い合う。
そのまま、額が触れる。呼吸が混じる。指先が頬から首筋へ、肩へとゆっくり降りる。確かめるような動き。急がない。奪わない。
ゼルクの角が、淡く光る。満月ではない。だが、内側から湧く光は穏やかで、深い。
「おまえは、王者だろ」
唐突な言葉に、ヴァルドの指が止まる。
「ここでは違う」
即答。
「ここでは、ただの……」
言葉を探す間に、ゼルクが口を塞ぐように唇を重ねた。
初めてのそれは、ぶつかるように拙い。だが離れたあと、目を逸らさない。
「ここでも王者だ」
息がかかる距離で、低く言う。
「俺が選んだ王者だ」
その言葉が落ちた瞬間、ヴァルドの表情がわずかに揺れた。舞台で見せる完璧な笑みでも、丘での穏やかさでもない、むき出しの感情。
次の口づけは、先ほどよりも深い。押し付けるのではなく、受け止めるように。触れた指先が背中へ回る。ゼルクは一瞬だけ息を詰めるが、拒まない。むしろ、衣の端を掴む。
「……痛くすんなよ」
照れ隠しのような声。
「しない」
低い約束。
寝台に身体を預けると、月明かりが二人を包む。衣がほどける音が、やけに大きく聞こえる。触れるたびに、互いの呼吸が変わる。戦いとは違う緊張。だが、逃げたいとは思わない。
ヴァルドの手が、背を撫でる。力強いはずの手が、驚くほど優しい。ゼルクは思わず目を閉じ、指先でその背に触れ返す。
「……おまえも、怖いか」
ゼルクが問う。
ヴァルドは一瞬考え、それから小さく頷いた。
「失うのは、怖い」
その正直さに、胸が締めつけられる。
ゼルクは首に腕を回し、引き寄せた。
「なら、離れるな」
命令のようで、願いのような声。
唇が重なり、呼吸が乱れ、やがて言葉は途切れる。触れ合う体温が、境界を曖昧にしていく。角の光が、穏やかに満ちる。
一線を越えるのは、劇的な瞬間ではなかった。叫びも、誓いもない。ただ、確かめ合うように、ゆっくりと距離を失くしていく。
やがて静かな波が引いたあと、二人は額を寄せたまま、しばらく動けなかった。
「……後悔は」
ヴァルドが、低く問う。
ゼルクは薄く笑う。
「させるか」
その声は、戦場よりも強かった。
欠けた月の夜。
光は満ちきらずとも、二人の間に影はなかった。
守る者と、守られる者ではない。
並んで立つ者同士として。
静かに、確かに、境界を越えていた。
⸻
夜が明ける少し前、ゼルクはふと目を覚ました。
腕の中に、確かな重みがある。自分より大きなはずの身体が、わずかに体温を預けている。規則正しい呼吸が胸元に当たり、くすぐったいほど近い。
一線を越えた、という実感は、派手な余韻ではなく、静かな事実としてそこにあった。
逃げたいとは思わない。
だが、どう顔を合わせればいいのかは、少し分からない。
ゼルクはそっと視線を落とす。ヴァルドの寝顔は、驚くほど無防備だった。闘技場で見せる威厳も、群衆を導く光もない。ただ、疲れを滲ませた穏やかな横顔。
(王者、ねえ……)
胸の奥が、じわりと熱くなる。
指先で、無意識にその髪を払う。触れた瞬間、ヴァルドのまぶたが薄く開いた。
目が合う。
ほんの一拍、互いに何も言えない。
「……起きてたか」
低い、寝起きの声。
「いまな」
短い応酬。けれど、その間に流れる空気は昨夜までとは違う。距離が、明らかに近い。
ヴァルドはゆっくりと腕を緩める。だが完全には離れない。確かめるように、額を軽く寄せる。
「後悔は」
昨夜と同じ問い。
ゼルクは目を細めた。
「しつこい」
だが、拒絶の響きはない。
「してねえよ」
はっきりと言い切る。
その言葉に、ヴァルドの肩からわずかに力が抜けるのが分かる。王者でも英雄でもない、ただの男の安堵。
ゼルクはそれを見て、胸の奥が強く締まった。
(こいつも、怖かったんだな)
失うことを恐れるのは、自分だけではない。触れた温度が消える未来を想像して、躊躇していたのは同じだ。
ゼルクはそっと手を伸ばし、今度は自分から抱き寄せた。
「離れんな、って言っただろ」
低い声。
ヴァルドは小さく笑い、腕を回す。
「離れない」
短い約束。
やがて朝の光が差し込み、丘の向こうから子供たちの声が聞こえはじめる。日常は待ってくれない。
ゼルクは名残を振り切るように身体を起こす。
「……顔、普通にしろ」
「普通だ」
「嘘つけ」
自分の頬が熱いのを自覚しながら、乱暴に衣を整える。
外に出れば、いつもの丘。いつもの風。月は淡く消え、太陽が昇る。
子供たちが駆け寄る。
「先生ー! 王者ー!」
無邪気な声。
ゼルクは一瞬だけ、隣を見る。ヴァルドは穏やかな表情で頷く。その目の奥に、昨夜の深い温度が残っているのを、ゼルクだけが知っている。
「今日は型を増やすぞ!」
わざと大きな声で告げる。子供たちが歓声を上げる。
その横で、ヴァルドが小さく呟く。
「声が大きい」
「うるせえ」
だがそのやり取りは、どこか柔らかい。
並んで立つ。
守る者と守られる者ではなく、同じ場所を選んだ者として。
本音のさらに奥を知ったからこそ、以前よりも強く、自然に。
欠けた月はまた巡り、いずれ満ちるだろう。
だが今は、朝の光の下で、確かな体温が隣にある。
それだけで、ゼルクの胸は静かに満ちていた。
⸻
それは、あまりにも分かりやすい変化だった。
一線を越えた翌日からというもの、二人の距離は微妙に、しかし確実に近い。触れ合う時間が増えたわけではない。むしろ人前では以前より控えめですらある。
だが――空気が違う。
丘の上で並んで立つだけで、目線が合う回数が増えている。言葉を交わす前の一拍が、柔らかい。ゼルクが何かを言い淀むと、ヴァルドがほんの少しだけ口元を緩める。その些細な変化を、子供たちが見逃すはずもなかった。
「ねえ」
最初に声を上げたのは、あの年少の少女だった。
稽古終わり、汗を拭きながら、無邪気な顔で二人を見上げる。
「やっぱり、結婚したの?」
空気が止まった。
ゼルクの手から布が落ちる。
ヴァルドは一瞬だけ瞬きをする。
周囲の子供たちが一斉に振り向く。
「え、したの?」
「昨日なんか距離近くなかった?」
「先生、今日ずっと顔赤いよ!」
「赤くねえ!」
反射的に叫ぶ。だが声が裏返る。
少女は首をかしげる。
「でも、なんか違うよ?」
その“なんか”が的確すぎる。
ゼルクは言葉を探す。否定するべきだ。いつも通り「してねえ」と一蹴すればいい。
だが、口を開いた瞬間、ほんの一瞬だけヴァルドと目が合った。
その目に、昨夜の温度がよぎる。
そして――。
「……まあ」
低い声が落ちた。
ゼルクがぎょっとする。
ヴァルドは、子供たちを見下ろしながら、妙に落ち着いた声で続ける。
「近い存在ではある」
静まり返る丘。
一拍。
「ほらあああああ!!」
子供たちが爆発した。
「やっぱり!」
「結婚だ!」
「先生、お嫁さん!」
「違う!!!」
ゼルクが叫ぶが、説得力がない。なにしろ、完全否定が出なかった。
少女がさらに踏み込む。
「じゃあ、好き同士?」
ゼルクの思考が停止する。
否定するのか。
否定できるのか。
横を見ると、ヴァルドが真面目な顔でこちらを見ている。
逃げ場がない。
ゼルクはぎり、と奥歯を噛み、顔を背けたまま、低く吐き出す。
「……否定は、しねえ」
沈黙。
そして。
「きゃーーー!!」
子供たちが跳ね回る。
「先生、言った!」
「王者も言え!」
「どっちから告白したの!?」
「やめろ! 質問が多い!」
ゼルクの耳まで真っ赤だ。
ヴァルドはというと、咳払いをひとつしてから、妙に堂々とした声で言う。
「先生は、俺の大事な人だ」
決定打だった。
丘が揺れるほどの歓声。
ゼルクは本気で頭を抱える。
「おまえ……!」
「嘘は言ってない」
「そういう問題じゃねえ!」
子供たちは「お嫁さんー!」「王者の奥さんー!」と好き放題だ。
ゼルクは真っ赤なまま怒鳴る。
「誰が嫁だ! 俺は隣に立つんだって言ってんだろ!」
「じゃあ旦那さん?」
「どっちがどっち?」
「そこ掘るな!」
完全に遊ばれている。
ヴァルドは口元を押さえているが、目が笑っている。ゼルクはそれを見て、ますます悔しくなる。
「おまえも慌てろ!」
「慌ててる」
「嘘つけ!」
だがその声には、もう本気の怒りはない。
子供たちは最後に少女がまとめるように言った。
「じゃあ、結婚したらまた教えてね!」
ゼルクは即答しようとして――一瞬、言葉が詰まる。
その沈黙を、子供たちは見逃さなかった。
「今ちょっと考えた!」
「考えたよね!?」
「考えてねえ!!」
だがもう遅い。
ひとしきり騒いだあと、子供たちは満足げに帰っていく。
夕暮れの丘に、静寂が戻る。
ゼルクは顔を覆ったまま、深く息を吐く。
「……最悪だ」
隣から、低い笑い。
「否定しなかったな」
「おまえが先に変な言い方するからだろ!」
ヴァルドは少しだけ近づく。
「嫌だったか」
またそれだ。
ゼルクは睨み上げる。
「その聞き方、ずるいって言っただろ」
ヴァルドは柔らかく笑う。
「嫌なら、直す」
その真面目さが、さらにずるい。
ゼルクは視線を逸らし、小さく呟く。
「……嫌じゃねえよ」
風が吹く。
欠けた月が、薄く浮かぶ。
二人は並んで立つ。
子供たちに見抜かれた関係は、もう隠しきれない。だがそれでいいと、どこかで思っている自分がいる。
ゼルクは小さく肩をぶつけた。
「次、あいつらに何か聞かれたら、おまえ全部答えろ」
「分かった」
即答。
「……何でもか?」
わざと問い返すと、ヴァルドは少しだけ目を細める。
「必要なことだけだ」
その含みのある言い方に、ゼルクはまた顔を赤くする。
丘の上に、二人の影が並ぶ。
今度はもう、問いの答えは変わらない。
慌てながらも、誤魔化しきれないまま。
それが、いまの二人だった。
⸻
噂というものは、子供の口から広がるときがいちばん速い。
しかも今回のそれは、やけに楽しげで、否定しきれない種類のものだった。
「先生と王者、好き同士なんだって!」
丘の上で弾けたその言葉は、あっという間に市場へ流れ、酒場へ渡り、翌日にはすっかり“事実”の顔をして歩き回っていた。
ゼルクがその異変に気づいたのは、いつもの野菜売りの屋台の前だった。
「おう先生、今日は二人かい?」
にやにやとした顔。
隣には当然のようにヴァルドが立っている。最近は手伝いだ何だと言って、買い出しにまで同行することが増えた。
「……二人だと何だ」
ゼルクが警戒すると、野菜売りは大げさに手を振る。
「いやあ、お祝いだと思ってな!」
「は?」
「おめでとう!」
周囲の屋台からも、くすくすと笑いが漏れる。
ゼルクの眉間に皺が寄る。
「何の話だ」
「とぼけるねえ! 丘の子らが言ってたよ? 先生と王者が――」
言いかけたところで、野菜売りはわざとらしく口を塞ぐ。
「いやいや、言わなくても分かるよなあ?」
「分からねえ!」
即答するが、声が少し高い。
ヴァルドは横で腕を組み、妙に落ち着いている。
「祝われることは、悪いことじゃない」
「肯定すんな!」
ゼルクが噛みつくと、野菜売りはどっと笑った。
「ほら見ろ、照れてる照れてる!」
「照れてねえ!」
「先生、顔赤いぞ」
周囲の大人たちが面白がって口を挟む。
「王者も隅に置けねえなあ」
「丘の英雄同士か、こりゃあ縁起がいい!」
ゼルクは本気で帰ろうかと思った。
だが次の瞬間、野菜売りが袋いっぱいの野菜をどさりと積む。
「今日は割引だ! いや、ほとんどお祝いだな!」
「いらねえ!」
「遠慮すんなって! 幸せのおすそ分けだ!」
ヴァルドが静かに袋を受け取る。
「感謝する」
堂々とした声。
「だから受け取るな!」
ゼルクが小声で抗議するが、野菜売りは満面の笑みだ。
「先生、王者を大事にしろよ?」
その一言に、ゼルクは反射的に答えそうになり、口をつぐむ。
隣を見る。
ヴァルドは、いつもの穏やかな顔でこちらを見ている。群衆に向ける王者の顔ではない。だが逃げも隠れもしない視線。
ゼルクは観念したようにため息をついた。
「……言われなくても分かってる」
ぽつりと漏れる。
その瞬間、市場が「おおー!」とどよめいた。
「聞いたか今の!」
「これは本物だ!」
「だから違うって言ってんだろ!」
完全に包囲されている。
ヴァルドが、少しだけ肩を寄せる。
「帰るか」
「帰る!」
ゼルクは袋をひったくるように持ち、足早に市場を抜ける。背後から「お幸せにー!」という声が飛ぶ。
丘へ向かう途中、ゼルクは顔を覆った。
「最悪だ……」
「嬉しそうだ」
「どこがだ!」
だが、胸の奥がほんのり温かいのは否定できない。祝われるというのは、悪い気分ではない。茶化され、冷やかされ、それでも嫌悪は湧かない。
ヴァルドが歩調を合わせる。
「噂は、困るか」
またその問いだ。
ゼルクは少しだけ考え、正直に答える。
「……おまえが嫌じゃねえなら、別に」
ヴァルドは短く笑う。
「嫌なわけがない」
その即答が、やけに胸に響く。
丘に着くころには、夕暮れが差している。袋の中の野菜が重い。だが不思議と足取りは軽い。
「次は肉屋も割引してくれるかもな」
ヴァルドがぽつりと言う。
「調子に乗るな」
言いながら、ゼルクは小さく笑った。
噂は広がり、からかいは続くだろう。だがそれは、二人がこの街に根を張っている証でもある。
欠けた月が、薄く空に浮かぶ。
茶化されながら、祝われながら。
並んで歩く影は、もう隠れるつもりがなかった。
⸻
家に戻るころには、夕暮れはすっかり夜に溶けかけていた。
袋いっぱいの野菜をどさりと台に置き、ゼルクは深く息を吐く。
「……二度と市場行かねえ」
ぶつぶつと呟きながら、野菜を取り出す手つきが妙に荒い。芋を転がし、葉物を引き抜き、やけに大きな音を立てる。
ヴァルドはそれを黙って見ていたが、やがて低く笑った。
「割引はありがたい」
「おまえはな!」
振り向きざまに睨む。
「何であんな堂々としてられるんだよ」
「事実だからだろう」
あまりにも自然に言われ、ゼルクの動きが止まる。
「……何がだ」
「大事に思っていることが」
さらりと。
火にかけた鍋が、ぼこ、と小さく音を立てる。
ゼルクは真っ赤になりながら、振り返らずに言う。
「だからそういうの、外で言うなって」
「家の中だ」
「市場で言ったろうが!」
「聞かれたから答えただけだ」
悪びれない。
ゼルクはついに振り返り、歩み寄る。
「おまえなあ……!」
勢いのまま、胸をぽか、と叩く。
軽い音。
ヴァルドは一瞬驚いた顔をし、それから口元を緩める。
「痛い」
「嘘つけ」
もう一度、ぽか。
「やめろ」
「やめねえ」
三度目。
今度は手首を掴まれる。だが力は強くない。逃げられる程度に、ただ止めるだけ。
目が合う。
さっきまでの市場の喧騒とは違う、静かな距離。
ゼルクは唇を噛み、視線を逸らす。
「……からかわれて平気なのか」
「平気だ」
「俺は平気じゃねえ」
正直な声だった。
祝われることは悪くない。だが、ああもあからさまに言葉にされると、胸の奥を覗かれたようで落ち着かない。
ヴァルドは手首を離し、代わりに頬へと指を伸ばす。
「嫌だったか」
またその聞き方。
ゼルクは思わず、ぽか、と今度は肩を叩く。
「ずるいって言ってんだろ!」
今度は少し強め。
ヴァルドは小さく笑い、肩を竦める。
「怒っている割に、力が弱い」
「本気で殴ったら困るのはおまえだろ」
「受ける」
即答。
ゼルクは一瞬言葉を失い、それから勢いよく額を押しつけた。
「そういうとこだ!」
額同士が軽くぶつかる。
静かな部屋に、二人の荒い呼吸だけが残る。
やがて、ゼルクは小さく笑った。
「……嬉しくねえわけじゃねえんだ」
ぽつりと零れる。
「ただ、慣れてねえだけだ」
守るとか、選ぶとか、大きな言葉は扱えても、“祝われる”という形で自分たちの関係を外側から認められるのは、まだ照れくさい。
ヴァルドはその言葉を噛みしめるように頷いた。
「ゆっくり慣れればいい」
「おまえは慣れすぎだ」
「王者だからな」
その冗談に、ゼルクは思わず吹き出す。
「家の中で王者やるな」
「じゃあ何だ」
問い返され、ゼルクは少し考え、そして低く答えた。
「……俺の隣」
ヴァルドの表情が、静かにほどける。
次の瞬間、そっと抱き寄せられる。
「それでいい」
胸に顔を押しつけたまま、ゼルクはもう一度、ぽか、と叩く。
だが今度は弱い。
照れ隠しの名残のような、軽い一撃。
「……外であんなこと言うなよ」
「分かった」
「本当か」
「必要なときだけ言う」
「それがずるい!」
笑いが、静かに重なる。
市場で冷やかされ、丘で騒がれ、それでも最後はこの家に戻る。
灯りの下、二人の影が重なる。
ぽかぽかとしたやり取りのあと、ゼルクは小さく息を吐いた。
「……まあ、割引は悪くねえ」
ヴァルドが肩を揺らす。
「次は肉だな」
「調子に乗るな」
そう言いながらも、ゼルクの声はもう柔らかい。
照れと、温もりと、確かな実感。
ぽかぽかと叩いた手は、最後には自然とその胸元に置かれていた。
⸻
夜は、思いのほか静かだった。
市場のざわめきも、子供たちの歓声も、家に戻ってからのぽかぽかとしたやり取りも、すべてが遠くへ沈んでいく。灯りを落とした部屋には、窓から差し込む淡い月明かりだけが残る。
ゼルクは寝台の端に腰を下ろし、まだどこか落ち着かない様子で髪をかきあげた。
「……今日は疲れた」
小さく呟く。
隣で上着を脱いだヴァルドが、静かにこちらを見る。
「騒がれすぎたな」
「おまえが余計なこと言うからだ」
そう言いながらも、声に刺はない。
しばらく無言のまま、二人は並んで座っていた。夜の静けさが、ゆっくりと体温を際立たせていく。さっきまでの冗談や照れは、少しずつ別の温度へと変わっていく。
ヴァルドの指が、そっとゼルクの手に触れた。
逃げない。
それどころか、ゼルクの指先がわずかに絡む。
月明かりに照らされた横顔は、昼間の教師の顔でも、市場で赤くなっていた顔でもない。少しだけ緊張を含んだ、静かな表情。
「……嫌なら言え」
低い声。
ゼルクは小さく息を吸う。
「その聞き方、ずるい」
けれど、今夜は叩かない。
代わりに、視線を上げる。
「嫌じゃねえよ」
その言葉は、はっきりしていた。
ヴァルドの手が頬に触れる。親指がゆっくりと肌をなぞる。その動きは確かめるようで、急かさない。
ゼルクは目を閉じる。
触れられるたびに、胸の奥が静かにほどけていく。戦うときの強さも、からかわれたときの強がりも、この暗がりでは役に立たない。
「……昼間のこと」
ゼルクがぽつりと言う。
「嫌じゃなかった」
ヴァルドは答えない。ただ額を寄せる。
呼吸が混じる。
「隣に立つって言ったろ」
「ああ」
「……そのつもりでいろ」
それは命令のようで、願いのようだった。
ヴァルドはゆっくりと抱き寄せる。腕の中に収まる体温が、確かな重みを持って伝わる。ゼルクは抵抗せず、その胸元に顔を埋めた。
鼓動が、近い。
外で茶化されても、祝われても、こうして二人きりになると、ただ静かな確信だけが残る。
唇が触れる。
深くはない。けれど長い。
指先が背をなぞり、布越しに伝わる熱が、じわりと広がる。
ゼルクは小さく息を漏らし、ヴァルドの服を掴む。
「……優しくしろよ」
「分かっている」
その声が低く、真剣で、余計に胸を締めつける。
寝台へと倒れ込む動きも、急がない。確かめるように、触れて、止まり、また触れる。
月は欠けている。
けれどこの部屋の中では、満ちているものの方が多かった。
やがて言葉は途切れ、代わりに静かな呼吸と、時折こぼれる名を呼ぶ声だけが残る。
外の世界がどれだけ騒がしくても、この夜だけは二人のものだ。
最後に、ゼルクが小さく笑った。
「……明日、絶対顔に出る」
ヴァルドがかすかに笑う。
「出てもいい」
「よくねえ」
そう言いながら、腕は離さない。
月明かりの中、影はひとつに重なったまま、ゆっくりと夜に溶けていった。
⸻
丘の午後は、いつもより少しだけ騒がしかった。
ゼルクは子供たちの相手を終え、水を飲みながら息を整えている。汗に濡れた髪を無造作にかきあげ、軽く笑いながら何かを説明している横顔は、教師としての落ち着きと、どこか艶を帯びた柔らかさを併せ持っていた。
そこへ、見慣れない男が現れた。
旅装束。年はゼルクとそう変わらない。剣士らしい身のこなしだが、表情は軽い。
「へえ、あんたが“丘の先生”か」
気さくに声をかける。
ゼルクは視線を向け、少しだけ警戒を含ませながらも応じる。
「何か用か?」
「ちょっと腕を見てもらいたくてさ。王者の町だって聞いて来たんだけど、王者よりあんたの方が有名みたいで」
軽口。
子供たちが「先生すごいんだぞー!」と囃し立てる。
ゼルクは苦笑しながらも、男の構えを見る。
「まあ、軽くなら」
剣を交える。
軽い手合わせのつもりだった。だが男は意外と腕が立つ。ゼルクも本気ではないが、楽しそうに応じる。間合いが近い。踏み込み、受け流し、距離を詰める。
「はは、強いな!」
男が笑い、ゼルクの肩をぽんと叩く。
その瞬間だった。
丘の入口に立っていた影が、動く。
ヴァルド。
遠征から戻ったばかりで、まだ鎧の一部を外しただけの姿。いつもなら、王者としての穏やかな微笑を浮かべ、子供たちに手を振るはずの男。
だが今は違う。
視線が鋭い。
丘の空気が、わずかに冷える。
男は気づかず、ゼルクに近づく。
「今夜、飲まないか? 色々教えてくれよ」
軽い誘い。
子供たちが「先生モテるー!」と騒ぐ。
ゼルクは肩を竦める。
「悪いが――」
そこへ、低い声。
「その必要はない」
空気が止まる。
振り向いた男が、初めて王者を見る。
だがそこにいるのは、歓声に応える英雄ではなかった。
ただの、背の高い男。
目が、笑っていない。
「……ああ、あんたが王者か」
男が軽く会釈する。
ヴァルドはゼルクの隣に立つ。近い。わずかに、肩が触れる。
「彼は忙しい」
穏やかな口調だが、隠しきれない圧が滲む。
ゼルクが眉をひそめる。
「おい」
だがヴァルドは視線を男から逸らさない。
「用があるなら、俺を通せ」
王者の物言いではない。
保護者でもない。
ただの男の声。
男は苦笑し、両手を上げる。
「悪かったよ。ちょっと話しかけただけだ」
空気の重さに耐えきれず、早々に去っていく。
子供たちも、なんとなく静かになる。
ゼルクはしばらく無言で立ち尽くし、やがて振り向く。
「……何だよ、今の」
ヴァルドは答えない。
ただ、ゼルクを見る。
その視線に、隠しようのない感情が揺れている。
「おまえ」
ゼルクは気づく。
「あれ、嫉妬か?」
直球。
ヴァルドの眉がわずかに動く。
「違う」
即答だが、遅い。
「嘘つけ」
ゼルクは一歩近づく。
「王者の顔どこいった」
沈黙。
そして、低く。
「……気に入らなかった」
子供たちが目を丸くする。
ゼルクも一瞬、言葉を失う。
「何が」
「触れた」
短い。
単純すぎる理由。
ゼルクは数秒見つめ、それから吹き出す。
「おまえなあ……」
怒鳴るでもなく、呆れるでもなく。
ただ、どこか嬉しそうに。
「俺が誰と話そうが、俺の勝手だろ」
「分かっている」
「分かってねえ顔だ」
ヴァルドは視線を逸らす。
王者の威厳はどこにもない。ただの、拗ねた男。
ゼルクは小さくため息をつき、子供たちの前だというのに、わざとらしくヴァルドの胸を指でつつく。
「俺は、隣に立つって言ったろ」
ヴァルドの目が揺れる。
「……ああ」
「他の奴と飲みに行く暇があると思うか?」
一瞬、理解が追いつかない顔。
それから、じわりと熱が戻る。
子供たちが「王者赤い!」と囃す。
ヴァルドは咳払いをするが、もう遅い。
ゼルクは小さく笑う。
「焼くのは勝手だが、顔に出すな。王者だろ」
「今は違う」
低い声。
「今は、バルトだ」
丘に、風が吹く。
ゼルクは少しだけ目を細め、柔らかく言う。
「……じゃあ、後でちゃんと焼け」
ヴァルドの喉が鳴る。
子供たちは意味が分からず首を傾げているが、二人の間には通じている。
王者の仮面が剥がれ落ちたままの男と、わざと軽く笑う男。
その距離は、いつもより近かった。
⸻
夜がどれほど燃えたのかは、翌朝の静けさがすべてを物語っていた。
丘の教室は、いつもなら朝早くから子供たちの声で満ちる。だがその日は、扉の前に張り紙が一枚。
『本日休講』
子供たちはざわついた。
「え、先生が休むの!?」
「風邪?」
「王者の遠征うつった?」
その頃、家の中。
寝台の上で、ゼルクは天井を睨んでいた。
「……最悪だ」
低い声。
起き上がろうとして、ぴたりと止まる。わずかに顔をしかめる。
「どうした」
隣から、控えめな声。
ゼルクは横目で睨む。
「どうした、じゃねえ」
ゆっくりと体を起こそうとするが、途中で動きが止まる。
「……腰が痛い」
ぼそり。
ヴァルドは一瞬、理解して、視線を逸らす。
「……すまない」
「謝るな!」
反射的に怒鳴るが、声に力はない。
「おまえが、あんな顔するからだろうが……!」
昨夜の嫉妬の余韻。王者の仮面を脱ぎ捨てた、ただのバルトの熱。思い出すだけで耳が赤くなる。
ヴァルドは珍しく、ばつが悪そうに眉を寄せている。
「加減はした」
「してねえ!」
即答。
「した」
「してねえって言ってんだろ!」
やり取りの最中にも、ゼルクは小さく息を呑む。
ヴァルドが慎重に近づく。
「立てるか」
「立てる……たぶん」
立とうとして、やはり微妙な顔になる。
ヴァルドは無言で支える。
その自然さが余計に腹立たしい。
「……今日は休む」
「そうしろ」
「誰のせいだと思ってる」
「俺だな」
あまりに素直で、ゼルクは言葉を失う。
結局、張り紙を書いたのはヴァルドだった。筆跡はやけに堂々としている。
「もっとそれっぽい理由書け」
「正直に“腰痛”と書くか」
「やめろ!」
◇
丘では、子供たちがざわざわと集まっていた。
そこへ、ヴァルドが一人で現れる。
「先生はどうしたの!?」
「具合悪いの?」
ヴァルドは一瞬だけ考え、淡々と答える。
「腰が痛いらしい」
静寂。
そして爆発。
「え!?」
「どうして!?」
「何したの!?」
ヴァルドは口を閉ざす。
子供たちは一斉に顔を見合わせる。
「あっ……」
「もしかして……」
「昨日、なんかあった?」
妙に察しがいい。
ヴァルドは軽く咳払いをする。
「詮索するな」
だが耳が、ほんのり赤い。
「王者、顔赤い!」
「絶対なんかあった!」
「先生とケンカした!?」
「していない」
即答だが、硬い。
子供の一人が腕を組む。
「じゃあ、王者が何かしたんだ」
ヴァルドは言葉に詰まる。
王者としてなら、どんな追及にも笑って応じられる。だが今は違う。
ただの、気まずい男だ。
「……無理をさせた」
正直すぎる告白。
「やっぱりー!!」
丘が揺れる。
「王者、ひどーい!」
「先生に謝れー!」
「謝った」
「まだ足りない!」
完全に包囲される。
ヴァルドは珍しく押され気味だ。
そのとき、遠くからゆっくりと歩いてくる影。
ゼルクだった。
ややぎこちない歩き方。
「先生!」
子供たちが駆け寄る。
「大丈夫!?」
「腰どうしたの!?」
ゼルクは真っ赤な顔で叫ぶ。
「うるせえ! ちょっと寝違えただけだ!」
「へえー?」
疑いの視線が一斉にヴァルドへ向く。
ヴァルドは静かに目を逸らす。
ゼルクはそれに気づき、ぽか、と軽く胸を叩く。
「おまえ、余計なこと言ったな?」
「事実しか言っていない」
「だから言うな!」
子供たちはきゃあきゃあと笑う。
「先生と王者、仲良しだね!」
「昨日もいちゃいちゃしてたの?」
「してねえ!」
即答するが、説得力は皆無。
ヴァルドが静かに支えるように隣に立つ。その自然な距離に、子供たちはまた騒ぐ。
ゼルクは小さくため息をついた。
「今日は軽く読み書きだけだ。走るのは禁止」
「先生が走れないからでしょ!」
「違う!」
丘に笑い声が広がる。
ゼルクは横目でヴァルドを見る。
「……今夜は加減しろ」
小声。
ヴァルドは真面目に頷く。
「善処する」
「善処じゃねえ、守れ」
子供たちの前でそんなやり取りをしていることに気づき、ゼルクはまた赤くなる。
丘の上、欠けた月は見えない昼間。
だが空気は満ちている。
王者の威厳はどこへやら。
ただのバルトと、腰をさすりながら強がるゼルク。
子供たちに囲まれながら、今日もまた、二人は笑われていた。
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